天狗岳の熊 第二話

 倒れたところは畳二畳ほどしかない場所で、高さが50メートルほどの滝の上でおまけにその上に10 メートルくらいの滝がある。滝と滝の間の狭い場所で落ちると命がないと思われる。下を見ると目がまわるほどだ。それにしても熊のサズドリ声が沢と山々にむ しょうに響きこだました。マタギとしてはそんなことは気にも留めて入られない。とにかくタダいた熊は一人ではどうすることもできない。場所が場所なだけに そのままにすることに決める。まずはガス抜きのためのど笛を切り裂く。その後頭を高くしてユウタンが*1散るのを防ぐ。あとはそのままにしておく。なぜか 熊の死骸にはタヌキやテンの死骸をあさる動物達もよりつかない。不思議なことなのだが『熊は山の王様』と思えばそれもあり得ることである。山を下りなが ら、熊のサズドリ声が妙に耳に残る。天狗岳を振り返り、山の神に感謝して家路についた。
 翌朝はまだ暗いうちに家を出た。一目散に一気に山を上り、熊を残した場所には9時頃早々についた。さっそく、ケボカイの儀式にとりかかり大切に行った。 しかし山に響いたサズドリ声がまだ耳に残っている。マタギとして気にしてはならぬと自分に言いきかせた。背負いだすのに友人を一人連れてきたので、10 メートルの滝の上からロープを下ろしてもらいそのロープを身体に結び、どうにか無事に作業を終え引き上げてもらう。なかなか苦労もしたが、なんとか引き上 げも終わりいよいよ背負いだすことにした。ふたりではかなりの重さだ。それでも一気に背負う。歩いている友人の姿を見ると、前かがみになり両手をついて登 る姿はまるで熊のようにも見える。自分もおそらくそんな姿かと思うと笑いがでた。
 ハアハアいいながら山の稜線にでたところでひと休みした。二人で向白神を見ながらいろいろ雑談しているときだった。急に冷たい空気が流れ天狗岳の頂上に 暗い雲が現れ白いものがチラホラおちてきた。「これは急がないと大変だ」と急いで歩き出した。案の定霧が出てきて自分の足元も見えないほどになった。こう なると動くことはできない。その場で霧が晴れるのを待った。ほんの数分で霧はあがった。これはおかしい。これは空気の流れがはやいことから、これから吹雪 になり山が荒れることをあらわし案の定山は荒れた。二人はただ、黙々と歩く。風はますます強くなる。雪は容赦なくぶつけるように身体にまとわりつく。友人 を見るとまとわりついた雪が体温で溶け湯気がたっている。自分もおそらくそうだろうと思う。そのうちに暗くなってきた。雪もだんだん深くなり歩きにくく なっていた。また霧がかかってきた。前方が見えない。これはマタギにとって方向がきかなくなることにつながる。山の峰から沢に下りて一夜を過ごすことにし た。二人とも赤石川のほうに下りている、だから車までもう少しで着くと思っていた。一瞬霧がはれて天狗岳が夕闇の中に黒々とそびえたち、なぜか怒ってい る、そんな気がふっと頭をよぎった。そんな時友人ががっかりした声で「マッチが全部汚れて使い物にならない!」と大声を出し立ち尽した。自分はそれよりも どうしても天狗岳が気になった。なぜこの場所から天狗岳が見えるのか・・・。赤石川のこの場所からはいつもなら天狗岳が見えることなどないはずである。も しかしたらここは赤石川ではなく反対側の追良瀬川なのでは・・・。友人もすぐに気付いたらしく、私に下りる場所を間違えたと言ってきた。やはり追良瀬川の トチノキ沢だと二人とも気がついた。
 山が晴れあがり、暗い中にも山々のかたちがはっきりと分かってきた。目の前に向白神が見下ろしている。とにかくここで朝を待つことにした。ところがしば らくするとお月様が出てきて、あたりは目も慣れてきたせいか明るくなった。この明るさだと歩ける。腹も減ってきていたので二人とも歩き出すことにした。荷 物と熊は置いていくことにした。しかし私はなんとなく気になるところがある。すると友人は何を思ったのか「自分は残るので食料を持ってきてくれ、腹が減っ てだめだ」と言ってきた。このままじっとしているには寒すぎる。そこで木の葉を二人で集めて友人を木の葉の雪だるまにした。これは見た目よりもかなり暖か いことを私も経験して知っていた。月光は雪に反射してますます明るく感じる。その明るさに誘われるままにその場を離れた。
*1 熊の胆のう