天狗岳の熊 最終話

 少し歩くと林道があると思われるところに車の明かりが見えた。まだそんなに近いわけではない。気が つくと対岸から見下ろしていた向白神岳が黒い雲に覆われ天狗岳の頂上から月の明かりだけがあたりを照らしている。天狗岳は私を威嚇するかのように月明かり の中にかっと輝くと、月とともに黒い雲に覆われはじめた。その頂上から闇の壁が足早に押しかけてくる。あっという間にまわりは漆黒の闇にとり囲まれた。こ うなると一歩動くのにからだの全神経をつかう。本当は動かない方がいいのだが絶壁に囲まれた沢の中では凍え死ぬだけだ。とにかくこの場を離れなければなら ない。身体の五感と全神経をつかってどうにか追良瀬川に出た。ところがここも絶壁で目の前は深い淵になっている。前に進むには泳ぐかこのまま引き返すか。 私は泳ぐことに決めた。さっそく準備に取り掛かった。まず雨合羽を取り出した。ズボンのほうから先に穿いた。そしてロープを取り出して腰と足首のところを きつく縛る。それから上着を着る。胸と腰の部分をきつく縛る。これで合羽の中の空気のおかげでしばらくは浮くし、そんなに濡れることもない。とにかく長く はもたないので早く泳ぎ渡らなければならない。さっそく泳ぎにかかった。しかしもう少しで岸につきそうなのになかなか着かない。不思議に思いよく見ると、 ちょうど沢の出口に向かって泳いでいたのだ。沢の出口から身をかわしてようやく岸にたどり着く。岸に上がったとたん、濡れたところがかちんかちんに凍りつ いてきた。マタギ道を探して歩き出す。小便をしたくなり立ち止まって小便をする。後ろの方が明るくなる。天狗岳に月が出て照らしていた。今度は今までと 違って天狗岳の姿が妙にたのもしく見えた。そのまま林道に出て車のある赤石川に向かって歩き出す。その間、天狗岳ととお月様はついてまわった。
 車につく頃には夜が明けてきていた。さっそく食料を持って友人のもとへ帰った。友人が食べているのに背をむけて小便をした。血のように赤い小便のあとを 雪の上に残した。後ろで友人が「もしかしたら天狗岳の連れの熊を撃ったから天狗岳の主が怒っているのでは」とぽつりと言った。私もそんな気がした。もう一 度マタギの唱えごとを唱え、自分に渇を入れて山を上り今度は赤石川のほうに下りて無事帰路に着いた。車の鏡には天狗岳がいっぱいに映っていた。


おしまい。